2005年12月09日

イゾラ・ベッラ@マッジョーレ湖 October '91

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10月になるとロンドンは寒くなってきて、イタリアに行くというと皆が羨ましがった。アリタリア459便でロンドンを12時に出てミラノに着いたのが14時。空港からタクシーでミラノ駅まで行って、ストレーザの駅に着いたのはもう夕方だった。

そこでバスを待ち、マッジョーレ湖畔にあるホテルまで着いたときはもうへとへと。ホテルはHOTEL DES ILES BORROMEESというシーズン中なら高くて泊まれない高級ホテルを選んだ。

ホテルの名前の示すとおり、このマッジョーレ湖にはボローメ諸島という島々があるのだ。翌日はこの島巡りをするので簡単な夕食をとって休んだ。

昼までロンドンにいたのに夜はイタリアの湖水地方にいる。専門家のK姉さんの作る旅程は早業だ。たった10日間でどれだけ多くのことを体験できるか、胸がわくわくした。

朝食の前にホテルの庭に出てみた。マッジョーレ湖の対岸には紅葉が麓まで下りて来ていて、その向こうには雪を抱いたアルプスが見える。絵のような風景とはこのことだ。

しかし、ホテルの壁にはまだ薄紫のブーゲンビリアが咲いていた。ここも暖かいというわけではないが、ロンドンよりは良い気候である。

広いダイニングルームには年寄りしかいなかった。ここでゆっくりと朝食をとっていると昨日までの慌しい都市生活が信じられない。ブッフェ形式だから、高そうなベリー類をたっぷり取
り、こってりとしたヨーグルトをかけて何杯も食べた。

実は、昨日はセインズベリーで買ったフルーツヨーグルトが2つとも夜中にK姉の息子に食べられてしまったのだった。でも、ここのヨーグルトはスーパーのヨーグルトとは違う。昨日はしばらく(心の中で)ヨーグルトを食べられてしまったことをブツブツ言っていたが、あれくらいあげてもよかったではないか、と反省。

ボローメ諸島に行くには船着場から小船に乗る。お姉さんが何人かの船乗りたちとイタリア語で交渉をしている間にトイレを済ます。船旅でもようしてきたら悲劇だ。これでよしっと。

アントニオというロマンチックな名前からは想像できない皺くちゃのお爺さんの運転で、まず3島のうちで一番大きいイゾラ・ベッラ(美しい島の意)に向かった。

イゾラ・ベッラ(写真)は17世紀にボロメオ家という豪族が作った宮殿と庭園と城下町でできた島。陸から見ると城砦のようだ。

島に近づくとぐるりを囲む重厚な石垣に圧倒される。一体どのような工法で作られたのだろう。クレーンも機材もなかったはずなのに。

しかし思索の途中でお腹が痛くなってきた。むむ、ヨーグルトを食べ過ぎたのだろうか。早く着いて、早く着いて!と祈る。船の周りに波立つ水が、トイレを流す水に見えて、さらにもようしてくる。連想しないように、連想しないように。

船着場でトイレのあるバールを探すが、目の前には宮殿の入り口しかない。トイレは中でさがそう。

大きな宮殿の中には贅を尽くした趣味の悪い装飾の部屋、部屋、部屋、が続く。地下には貝殻をしきつめて海底の趣を出したさらに趣味の悪い部屋があったが、トイレはない。昔の人は垂れ流しをしたのだろうか。

私はお姉さんを置いて早足で宮殿をかけぬけた。トイレは庭にあった。しかし、個室は2つだけで悲劇の行列。にこやかに待つ哀れな私。順番が来たときはほっとして体中の力が抜けた。
 
日本の評判を汚す(何でとは聞かないで)という恐怖から開放されて、やっと庭を鑑賞する気分になった。当時にはめずらしい植物を植えたらしく、アルプスの近くとは思えない南国の趣の芋やバナナの木があり、孔雀や真っ白な鳩もいた。(これはターシャ・テューダーが庭で飼っていた尾っぽの丸い鳩である)

次の島はペスカトーリ(漁師)の島。お腹が落ち着いたので色づいたプラタナスの秋の風情を満喫。細い石畳の裏通りを歩けば、立てかけられた折りたたみ椅子に季節はずれの趣が漂っていた。

ここでは運よくバールも開いていて、トイレに直行。カプチーノを飲んだらまた行きたくなって帰りもトイレに。結局15分のバール滞在中10分はトイレだった。

冷たい風の中、冷や汗たらたらの島巡り。それまでの人生で一番つらい受難の1日だったかもしれない。

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2005年12月08日

センズベリー・ウィングでイタリアを想う '91

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この豪華なヴェニスとフィレンツエへの旅行の後はイタリアに行く機会はなくなった。この会社に余裕がなくなったのである。しかし、もともと実現したのが早すぎたわけで、また行きたいと思うことはなかった。遊ぶより自分の生活の基盤を作るのが先だ。

まだレミー・マルタンやパリの某社の通訳をしていたので、フランスに行くこともあったが、なぜか帰りにロンドンによってしまうのだ。だんだんにフランス人にこき使われるのが嫌になり、自分の能力を自分のためにだけ使って仕事をしたいと思うようになってきた。そうすると足がロンドンに向くのだった。ロンドンは理由は解らないが自分の気分にとても合う街だった。

ロンドンで好きなのは美術館だ。大英博物館ではずっとここにいたら勉強してボランティアのガイドになりたいと思って通ったこともあった。テート美術館のラファエル前派はのちに私の図像学でのテーマになった。でも、当時いちばん心を惹かれたのはナショナル・ギャラリーのセンズベリーウィングである。

写真の右がナショナル・ギャラリー本館。左がセンズベリー・ウィング。センズベリーというスーパーの寄付らしい。ここにはイタリア絵画がぎっしりつまっているのだ。ここに行ったときはイタリアを想った。いつか、これらの絵画がもともとあった場所を訪れてみたいと思った。

ロンドンを好きになったのは、知人から紹介されたKさんの存在が大きい。旅行会社を友人夫妻と作りながら役職より第一線で働くことを選んだ彼女はロンドンだけでなくヨーロッパを知り尽くしている人だ。彼女には妹のように可愛がってもらって、私はお姉さんと呼んでいる。

ある日彼女が、一緒に北イタリアに行かないかと提案してくれた。テーマは[ロマネスクを訪ねる旅]。好みもとても似ているのだ。彼女が仕事の合間に作ったスケジュールにしたがって私たちは初めて一緒に旅行した。

これは最高の旅だった。その後もハンガリーに行き、夏のイギリス南西部を2週間も車で旅行し、アジアも一緒に回った。気の合う人との旅行はなんて楽しいものなのだろう。

次のイタリアはこの旅程に沿って、ロンドン⇒(ミラノ)⇒マッジョーレ湖⇒マントヴァ⇒クレモナ⇒パルマ⇒ボローニャ⇒フェラーラ⇒パードヴァ⇒ガルダ湖⇒(ミラノ)⇒ロンドン。

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2005年12月06日

初めてのフィレンツェ November '89

ダニエリのボートで船着場に着き、手配してもらったハイヤーでフィレンツエに向かった。ハイヤーといってもちょっと古い車で、たぶんボーイが知り合いに斡旋したような車であった。早くも、イタリアン・ビジネスは良く言えば家族・友だち尊重主義、悪く言えばいい加減だと感じはじめる。

フィレンツエのホテルはグランド・ホテル。世界中のグランド・ホテルと同じ豪華なロビー。グランド・ホテル大好きの私には嬉しいホテルだったが、ダニエリの後では感激が薄かった。ダニエリはそれほど凄いホテルだったのだ。

そういうところに泊まれるのだから、この会社の仕事をして良かったと思った。少なくともこの旅行中は。その後に給料不払いや立替踏み倒しがあって、やはり異常に金を使うやつらは信用してはだめだと気づいた。

さて、このグランド・ホテルは第二次世界大戦後はアメリカ人を呼ぶために[グランド・ホテル・オブ・ニューヨーク]という名前になっていたらしい。飾ってあった古い写真にでかでかと出ていた。イタリアは観光で食べている国だからかプライドがない。仕事柄フランスばかり見てきた私には不思議な感じだった。

グランドホテルはアルノ川の岸に建っている。夜には対岸の教会がライトアップされていて、水面に映った白い影が小波に揺れていてロマンチックだった。

このころ私はまだフィレンツエのことを調べる時間がなく、まして絵のこともあまり知らなかった。だから、このライトアップされた教会の少し先にカルミネ教会があって、そのブランカッチ洗礼堂にマザッチョのフレスコ画が残っていることなど知らなかった。

また、グランド・ホテルのある小さな広場がオンニ・サンティ広場で、そこに面した古い小さな教会の木戸をあけると、そこの食堂の壁にギルランダイヨの最期の晩餐が昔のままに残っていることなど知るすべもなかった。

それでもショッピングに行く上司たちと別れて、限られた時間の中でタクシーを拾って一人で行ったのが、サンタ・マリア・ノッヴェラ教会だった。

目当ては初めて遠近法を使ったマザッチョの『三位一体』だったが、小さなフレスコ画で拍子抜けした。有名な絵は豪華で大きいと想像していたのだ。

なぜ私がこのフレスコ画を見にいこうとしたのかは思い出せない。ただ、本で見た絵をなぞりにウッフィッツィ美術館に行こうとは思っていなかった。2度と来れないフィレンツエだから、現場でしか見れないフレスコ画を見ておこうと思ったのだろう。

教会の外の回廊に出てみると、そこには剥げていて何が描いてあるか不明のフレスコ画がずらりとあった。人間と同じで、ハゲかかってはいても心ひかれるものがある。これはウッチェロの作品だだった。[緑の回廊]⇒http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/u/uccello/4battle/index.html

ウッチェロの名作「サン・ローマーノの戦い三部作」はウフィツイ美術館のほか、ナショナル・ギャラリーとルーヴル美術館にあって、立派に修復されている。木の板にテンペラで描かれたものだからだ。剥がれ落ちたフレスコ画は必死に何かを伝えようとしているのだが、解らないのが悲しい。
 
回廊から一つの部屋に入ると、大きな異様な絵がでーんとあった。好みではなかったが、その前のベンチに座ると隣の老夫婦が「これが有名なドミニコ修道会の絵だ」と言っていたので、しっかりと隅々まで見た。

確かに有名な絵だったようで、『世界の歴史』という週刊誌の中央見開き両ページにみつけたときは、「あの絵だ!」と感激した。ここはスペイン礼拝堂というところだった。
 
その後、上司たちとドゥオーモに行った。とても美しかったが、ディズニーランドの作り物のような感じがした。ミラノのドゥオーモの壮大な美しさにより惹かれていた頃だ。

ここでは私はもうひとつのお目当てジョットの設計した鐘楼に登ることにした。高所恐怖症の上司たちを下に残して四角い塔の内側の細い階段をぐるぐると四角く上った。ドゥオーモの屋根に登る人は多いが、こちらではすれ違った人は数名だった。

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一番上につくと、そこには鐘があった。鐘楼なのだから当然だが・・。ブルネレスキの設計したドゥオーモのクーポラ全体が見えて感激した。そして何百年の間ここを登る人間の重さで磨り減った石の上を歩き、同じアングルで景色を見ていることに興奮した。

当時、私が興味のあった画家は、ルネッサンスの先がけジョットと、それからペストの流行で国勢が衰えた100年の後に現われたマザッチョ、そして建築家のブルネッレスキだった。絵そのものより、絵画史に興味があったようだ。
 
鐘楼をおりてからドゥオーモの裏にある附属美術館に行った。シニョーリア広場のダヴィデ像の本物が置いてあるところだ。上司がミケランジェロの崇拝者だったから抵抗があったのかもしれないが、彼が絶賛するダヴィデの像について、次のような冷めた感想を書いている。

ミケランジェロのダヴィデの静止に感じる苛立ち(ほぼ原文)
 
 ダヴィデは大きな像である。片足に重心をかけ、静止している。
 ゴリアテに投げつける石を肩に左手で当てているが、左ききか?
 この後、右手にもちかえて投げるのだろうか? マウンドの投手
 のように思える。筋肉はすごいかもしれないが、私は筋肉には興
 味がない。上半身に比べ下半身が萎えている。

 何に苛立つのだろう。ダヴィデに苛立つのか、ミケラ
 ンジェロに苛立つのか、ルネッサンスに苛立つのか?(上司か?)


この小さな教会附属美術館には洗礼堂の聖堂の扉のコンテストの2つの作品が並べてある。『イサクの犠牲』という命題でギベルティとブルネッレスキが競った提出作品だ。

上司が、「どちらが勝ったと思うか」と問うから、好みの方を指差したら、そちらは負けたブルネッレスキの方だった。私が審判員だったら選んだブルネッレスキの作品はこちら。勝ったギベルティの作品はこちら
 
この2つの彫刻は図像学について興味を持つことになった記念すべき作品だ。でもそのときは、7年後にドゥオモ横の語学学校に通い、フィレ ンツエ市のイタリア語のディプロマを貰い、飽きるほどに美術を見て回り、図像学にのめりこむとは予想もしていないキャリアウーマン街道まっしぐらの私だった。

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posted by iconologist at 14:53| Comment(0) | '89 ミラノ・ヴェニス・フィレンツエ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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